修羅の覚悟 3
痴呆性老人は、介護や介助を必要とするという点でも、人間の形をしているが見当識を失っているという意味で「人間」でないという点でも、赤ちゃんと酷似しています。
しかし、痴呆性老人の場合は、ひとたび人間となった個人が「非人間」化するという点では、その介護や介助に「夢」を託しにくいのです。
・・・もちろん、再び「人間」化する可能性を信じて介護や介助を惜しまないのは人間らしい態度ではあるでしょう。
けれども、すでに「人間」の基本条件を失っている、失いかけている痴呆性老人を人間らしく世話しなければならないのは、介護や介助に当たる諸個人が見当識をもつ人間であるからです。
自分がだれであるかも分からず、時間の観念を失い、他人を判別できなくなった老人を、在宅でひたむきに介護する人びとに崇高さが感じられるのは・・・
わたしたちが見当識を失った老人と自分を重ね合わせ、イメージの世界で人間らしく扱われる自分を思い浮かべるからです。
しかし、実際に介護や介助に当たっている人びとの日常は修羅に近いのです。
疲労困憊のすえ、自分の手から離し施設へ入れる決意をしても、それをだれが責められるでしょうか?
在宅福祉の重視は、ある程度まで、この修羅を引き受ける覚悟をすることです。
そして、実はこの背景には「老人」観の変転があると考えられます。